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【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #43

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

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第43回 下館藩仕法

烏山藩は桜町領の北隣だが、南隣の常陸国真壁郡(ひたちのくにまかべぐん)(現在の茨城県筑西市)にあったのが、石川氏の治める下館(しもだて)藩だった。真壁郡の30ヵ村に加え、河内(かわち)にも22ヵ村の飛び地を有し、あわせて2万石を領していた。
一族から有名な石川数正も出している石川家は、三河時代から仕える譜代の家柄であり、石川本家は伊勢亀山藩6万石。下館藩も小藩とはいえ、格式のある大名であった。
もともと下館藩は、良質なことで知られる真岡木綿(もおかもめん)の特産地として栄えていたが、第4代藩主石川総弾(ふさただ)の頃から大洪水、大火、大飢饉と天災が相次ぎ、領内は荒廃。藩財政も破綻寸前となり、第8代総貨(ふさとみ)の頃には正月の準備にも事欠くようになっていた。
天保8(1837)年8月、下館藩は高田尉右衛門(たかだじょうえもん)を桜町陣屋に派遣して仕法を依頼してきたが、多忙な金次郎はこれを断った。同年10月には高田より身分の高い奉行の衣笠兵太夫(きぬがさへいだゆう)が再度依頼してきたが、金次郎はこの時もまた断った。
だが衣笠は桜町領を視察して桜町仕法に感動し、下館藩を救う道はこれしかないと考え、家老の牧甚五太夫(まきじんごだゆう)に出馬を促した。
すると今度は、家老の牧甚五太夫自らが桜町に赴いて仕法を依頼してきた。
いつもであれば、家老職が依頼に来た場合、高い確率で依頼を受けるのだが、この時は時期が最悪だった。年末には第2期桜町仕法を終えて桜町3村の引き渡しが行なわれる。それが終わったら、後述する小田原藩の仕法を開始する手はずとなっていた。
体がいくつあっても足りない。仕方なく今度も断ることになった。
だが、下館藩もこれしきで諦めるわけにはいかない。天保9(1838)年10月、藩主石川総貨(いしかわふさとみ)は金次郎に直書をしたため、分度を守る覚悟のほどを訴えた。
藩主直々の依頼ということで、ようやく金次郎も重い腰を上げた。

帳簿類の提出を求めてみると、天保9年末の時点で下館藩の借金は3万5,066両に及び、年間利息の1,597両を払うのがやっとの状態であることがわかった。格式のある藩のため、借入先に水戸徳川家や紀州徳川家などが入っており、踏み倒すことができない事情があることも理解した。
金次郎は他の仕法同様、過去10年間の平均収納・畑方金の総額を把握して分度を定める一方、借主に下館藩の返済意思を明示するため、天保9年の収納をすべて借財の返済に回すことを提案する。
水戸徳川家や紀州徳川家だって財政状況は厳しい。立場上、彼らから急に全額を返済せよと言われても抵抗できない。そうした最悪の事態に陥ることを未然に防いだのだ。
こうしたケースバイケースのきめ細かい心配りは実に見事である。
精緻に計算した結果、借財の増大に歯止めをかけるためには、2割8分削減の分度設定が必要であることが判明した。
財政再建が行われるまでは俸禄を返上しようと家老の牧が言いだし、他の藩士たちもこれに追随した。自ら推譲の精神を発揮したのだ。これには金次郎の方が驚かされた。
金次郎は3万4,000両あまりの借財を、報徳金や石川本家からの借り入れなどの無利子資金への借り換えを進め、まずは年間利息の1,600両を浮かせ、これを借財返済に回していった。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は2月14日更新予定です。