見出し画像

【北康利連載】二宮尊徳~世界に誇るべき偉人の生涯~ #45

二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ。

武者小路実篤

前回はこちら↓

前回までのあらすじ

桜町領と青木村の仕法で名声を確立させた金次郎の元には、天保の飢饉で疲弊した近隣の諸藩から助けを求める声が殺到する。多忙を極めている彼はどこに対しても最初は断るが、それでも分度を定めて仕法に耐える強い意思を示した藩には救いの手を差し伸べてやった。彼の博愛の精神と無私の魂は多くの人の心を動かし、確実に仕法の実があがっていくが、分度を守ることは為政者たちにはおしなべて難しく、残念ながら完全に成功したと言い切れるところは少なかった。

第45回 小田原藩飢民救済

天保の大飢饉は、おおよそ天保4(1833)年から天保8 (1837) 年まで続いた。
江戸の米が払底したため幕府は残っている蔵米の払い下げを命じる一方、救い小屋を建てて窮民を救済しようとしたが、時既に遅し。
各地で打ち壊しが発生し、江戸市中では切りつけ強盗が頻発。諸物価は高騰し、天保7(1836)年、第11代将軍家斉(いえなり)は隠居し家慶(いえよし)が後を継ぐこととなった。
人心を一新させようという試みだったのだろうが、人々の不満は募るばかり。
そんな中、烏山藩からの使者が小田原藩江戸屋敷の門を叩いた。
「二宮金次郎殿を是非とも我が烏山藩にもらい受けたく、主君より書状を預かって参りました。どうかお取り次ぎ下さりますようお願い申しあげます」 
その頃、金次郎による烏山藩の飢民救済はひとまず一段落し、続けて新田開発などの仕法を本格化させていた。こうした手腕を目の当たりにした烏山藩の幹部たちは、金次郎にぞっこん惚れ込み、今回の申し出になったのだ。
驚いたのは藩主の大久保忠真である。
小田原藩への仕法導入が延び延びになっていることが気にはなっていた。今回の飢饉で領民が困窮しているのは何も烏山藩だけではない。小田原藩でも、特に御殿場周辺の駿東郡は凶作が甚だしかった。
分家筋で縁があるとは言え、金次郎をみすみす他藩に譲り渡す道理はない。
忠真は、ついに金次郎登用を決断し、天保8年2月7日、金次郎は忠真からの直書を受け取った。小田原に戻り、まずは小田原領内の飢民を救ってもらいたいと書かれていた。

心酔する忠真公からのたっての依頼だ。取るものも取りあえず忠真のいる江戸へと向かった。
「烏山藩救済の経験から推測して、小田原藩ならお救い米は1万石必要になりましょう」
という金次郎の申し出に対し、その場で忠真は藩の備蓄蔵からの放出を確約する。惚れ惚れとする決断力である。
金次郎はただちに江戸を立ち、今度は小田原へと向った。
そして到着するや否や、留守を預かる国家老に上申した。
「直ちに蔵を開け、備蓄米を駿東郡へ運ぶ準備をしていただきたい」
ところがである。忠真の命はどこかで止められ、国家老のもとには届いていなかったのである。
「唐突に何を申すか。江戸に使者を遣って殿のお考えをお聞きせねば」
国家老の危機感のなさには心底失望した。
「確認は不要にございます。殿より直々に御許可をいただきました。多くの飢民が助けを待っております。すぐに蔵をお開けください」
だが国家老はすぐには応じない。押し問答するうち正午になり、ひとまず食事にしようと言い出した。
怒ったのは金次郎だ。
「数万の民が飢えている時に、昼食を先にするとは何事です。彼らのことを思えば、蔵が開くまで米粒一つ食べることなどできようはずがない!」
国家老には、目の前の金次郎は藩主の威を借りた成り上がり者でしかない。だが今は、金次郎のほうに理があるのは明らか。
いまいましげに立ちあがると、すぐに重役連を召集した。一同皆、ここは金次郎の言う通りするほかないと決した。
藩の蔵を開くよう蔵奉行に命じられ、米が次々と搬出されていく。箱根山中から駿東郡にかけての山あいの村々を中心に救済小屋が設けられた。

金次郎は、困窮している領民を極難・中難・無難に分けて対応するよう命じた。
極難と中難でその額に差はあるものの、彼らにはとりあえず米と金銭が貸与された。その上で、極難には粥の炊き出しという至急の救済を行い、中難には新田開発に従事させることで食事代を日当で支払う方法を用いた。これは烏山藩の時にも用いられた方法であった。
小田原は烏山と違って気候は温暖である。なんとか歯を食いしばって梅雨入り前まで我慢すれば麦の収穫が見込める。極難はさておき、中難の中には、貸与米をぎりぎりまで我慢する者もいた。
結局、救援米は2,000石ほどで足り、当初見積りの5分の1で済んだ。一方で貸与を受けた者たちは懸命に働き、1人の落伍者もなく5年で完済された。小田原の人々のモラルの高さが窺える。富士山の噴火と幾度もの洪水に見舞われた彼らは、極力他人に頼らない自助の精神を身につけていたのである。
飢民救済を終えた金次郎は、一旦桜町陣屋へ引き上げることにした。桜町仕法完了の準備があったからである。
そして天保8年4月25日、報告のため忠真のいる江戸に立ち寄った。忠真の様子が少し変だ。顔色がすこぶる悪いのも気になった。
「大儀であった。どうだ、そろそろ小田原藩の仕法に取りかかってくれんか?」
この言葉の後、しばし沈黙があったが、意を決して金次郎は申し訳なさそうにこう述べた。
「いえ、私は藩の皆さんから嫌われておりますので……」
金次郎は丁寧に頭を下げ、その場を辞した。
この時、忠真の顔に失望の色が浮かんだのを、金次郎は深い後悔の念とともに生涯忘れなかった。
それからまもなくして、忠真は重い病の床に伏すのである。

  • 本連載は会員制雑誌である月刊『致知』に掲載されている連載を、致知出版社様のご厚意で1ヵ月遅れで転載させていただいております。

  • 次回は2月28日更新予定です。