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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝

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第14回山本七平賞を受賞され、100年経営の会顧問や、日本将棋連盟アドバイザーなど、多方面でご活躍されている作家・北康利先生による新連載企画です。 日本林学の父、公園の父と呼ば… もっと読む
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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #01

こんにちは。ひふみラボ編集部です。 今回より、作家・北康利先生による、林学者で投資家の本多静六の投資哲学を現代に伝える連載小説をひふみラボnoteでスタートします! こちらは毎週金曜日に更新していく予定です。 第1章の章末からは、レオスの運用メンバーが実際に小説を読んだ感想もご紹介していきます! 皆様もぜひ、お読みいただいた感想をFacebookやTwitterなどのSNSでシェアしてくださいね。 プロローグ 永遠の森 (1) 日本で一番参拝客を集める明治神宮。コロナ前は

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #02

前回はこちら↓ プロローグ 永遠の森 (2) 本多はいわゆる生来の天才ではなかった。秀才でもなかった。ひたすらに努力の人であった。「人生即努力、努力即幸福」という彼の言葉が、そのことを雄弁に物語っている。幼いころの勉強嫌いを克服し、圭角(けいかく)のある性格を矯正し、早くに人生計画を立て、よい習慣を身につけて実践していった。 彼の造林学と人生計画には似通ったところがある。まずその環境に適した森林の理想型を頭に思い巡らす。寒冷地に暖帯の木を植えても早晩枯れる。自分の能力や環境

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #03

前回はこちら↓ 第一章 勉強嫌いのガキ大将 (1)折原静六本多静六は慶応二年(一八六六)七月二日、武蔵国埼玉郡河原井村(現在の埼玉県久喜市菖蒲町河原井)の農家に、父折原長左衛門(通称禄三郎)、母やそとの間の六番目の子(三男)として生まれた。大学生の時、本多家に養子に入っているが、それまでは折原静六である。 八人兄弟であったが、三人は早世し、一〇歳の頃にはすでに兄が二人、姉が一人、妹が一人になっていた。幼くして命のはかなさを感じ、世の無常をかみしめるのは、当時のこの国の日常で

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #04

前回はこちら↓ 第一章 勉強嫌いのガキ大将 (2)折原家と不二道孝心講静六の祖父折原友右衛門は傑物であった。 静六はこの祖父に最も大きな影響を受けたことを、自叙伝『体験八十五年』の中でわざわざ言及しているほどだ。 そんな友右衛門には深く信仰しているものがあった。不二道といい、江戸時代隆盛を極めた富士講の流派の一つである。 多種多様な神仏を敬う日本人の宗教観は、およそ世界の常識とはかけ離れているが、江戸時代はそれが顕著であった。幕府はキリスト教を禁止していただけで、民間信仰に

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #05

前回はこちら↓ 第一章 勉強嫌いのガキ大将 (3)折原家と不二道孝心講(続き)富士講教主から絶縁を言い渡された後も、友右衛門たちは黙々と〝行〟を続けた。 明治一一年(一八七八)には、埼玉県庁付近の土木工事を〝土持〟の行として行っている。 これに対し、名県令として知られた白根多助(しらねたすけ)は「至誠報国不二道孝心講」と書いたのぼりを贈って労をねぎらった。友右衛門がいかに感激したかは、彼の戒名が至誠院報国孝心居士であることからも知れる。 明治一七年(一八八四)からの皇居内工

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #06

前回はこちら↓ 第一章 勉強嫌いのガキ大将 (4)郷土の偉人・塙保己一埼玉が生んだ三賢人と呼ばれる人達がいる。 盲目の学者・塙保己一(はなわほきいち)、近代資本主義の父・渋沢栄一、日本の女医第一号・荻野吟子(おぎのぎんこ)の三人だ。最近では我らが本多静六も加わり四賢人と称されることも多い。 静六の生まれた河原井村から渋沢が生まれた血洗島村までは北西に三〇キロ。埼玉県になる前、血洗島は熊谷県、河原井村は浦和県と別々の県に分れていた。 塙の生まれた児玉村は血洗島村から西に六キロ

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #07

次回はこちら↓ 第一章 勉強嫌いのガキ大将 (5)島邨泰(しまむらやすし)と米搗(つ)き勉強明治一三年(一八八〇)、満一四歳でようやく念願の上京が許された静六についてである。 上京すると言ってもまだ若い、頼る人がいなければ路頭に迷ってしまう。かつて兄金吾が教えを受けていた遷喬館元館長の島邨泰を頼ろうということになったのだが、静六だけで行かせるわけにもいかない。 そこで母やそは、実家の兄金子茂右衛門に相談にのってもらうことにした。 やその実家は葛飾郡上吉羽村(現在の埼玉県幸手

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #08

前回はこちら↓ 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (1)我が国林学の父・松野礀東京山林学校は、山林行政を担っていく官吏養成を目的に設立された学校であった。 農政の養成機関としては、すでに駒場農学校が明治一一年(一八七八)に開校している。同校の開校式には明治天皇が臨席され、皇族や大久保利通内務卿なども参列した。農業振興が国の基礎であることは明治以前からこの国の基本思想であり、思い入れの強さがうかがえる。 林業も農業に遅れはしたものの、殖産興業の観点から重要視されていた。コ

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #09

前回はこちら↓ 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (2)無謀だった山林学校受験島邨(しまむら)の言うとおり、東京山林学校は官立なので学費は安かった。修学上必要最低限の教科書代や制服や靴なども支給されることになっている。当時はまだ将来何になろうという確かな志望があったわけではなかったが、安い学費で勉強できることに強く惹かれた。 そのことが、一生を林学に捧げる出発点となるのである。 募集は二月、九月開始の二期生で、募集数はそれぞれ三〇名と五〇名程度。 だが、この東京山林学校

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #11

前回はこちら↓ 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (4)性格と人相を変える努力静六は自らの人生を、人並み外れた努力と工夫によって切り開いていった。 実家にいた頃の勉強時間不足は〝米搗き勉強〟で克服し、東京山林学校に入学してからの運動不足は〝エキス勉強〟で乗り切ったわけだが、今度は驚くべきことに、自分の性格をも矯正しようとするのである。 彼は自分の性格に関して、こんな思い出話を自伝に記している。 満一〇歳頃のこと、若い女性の使用人が米を研(と)いでいる時、米を流しにこぼ

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #12

前回はこちら↓ 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (5)一度は揺らいだ林学への志明治一九年(一八八六)七月、東京山林学校は駒場農学校と合併し、新しく東京農林学校となって、西ヶ原から駒場に引っ越すこととなった。 これにより日本初の総合的な高等農学教育機関が誕生したことになる。そう言うと体裁はいいが、実際には政府の財政難が背景にあった。要するに統合による運営コストの圧縮が狙いだったのだ。 だが静六は嬉しかった。駒場の寄宿舎は二階建ての洋風建築。ベッドもこれまでのような蚕棚式

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #13

前回はこちら↓ 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (6)恩師志賀泰山と留学への思い明治初期の林学教育は松野礀(まつのはざま)が創始し、中村弥六が森林経理学を持ち込み、最初は二人で専門教育に当たっていたわけだが、さすがに限界を感じ、二年ほどするとハインリッヒ・マイエルとオイスタッハ・グラスマンというお雇い外国人をミュンヘン大学から招聘することとなった。彼らはそれぞれ三年と八年の間、日本に滞在して教鞭を執り、学生たちにも慕われ、日本の林学に大きな足跡を残している。 だがまだ

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #14

前回はこちら↓ 【彰義隊の本田晋】 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (7)銓子との縁談静六に縁談話が持ち上がったのは、東京農林学校本科二年生の終わりごろ。卒業まであと二年と迫った満二二歳の春のことであった。 松野先生に呼ばれ、こう切り出された。 「彰義隊の元頭取で本多晋(すすむ)という方の一人娘に婿を取る話があるのだが、なんでも是非大学の首席をもらいたいとのことで、僕のところへ頼みに来られた。どうだ、行く気はないかね」 静六は面食らった。まだ結婚のことはまったく考え

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #15

前回はこちら↓ 【静六の義父・本多晋】 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (8)縁談から逃げる静六一種のテレもあるのだろう。自伝『体験八十五年』の中で静六は、彼が縁談から必死に逃げ、本多家が追いかける様子を、面白おかしく微に入り細をうがって書いている。 本多家は松野先生に続いて、中村弥六教授まで引っ張り出してきた。 中村は磐梯山噴火後の裏磐梯緑化に貢献し、五色沼に弥六沼の名を残すなどしたが、後に東京農林学校が帝国大学農科大学となったのを機に大学を辞して政界に進出。第一