前回はこちら↓ 【禿山だった六甲山】 第四章 緑の力で国を支える (14) 六甲山緑化事業静六は留学から帰って二年後にあたる明治二七年(一八九四)五月、『大日本山林会報』連載「如是我聞録」の中で米国の植樹祭について触れている。当時の日本人は、この記事で初めて海外に〝植樹祭〟なるものがあることを知ったのである。 そして今でも学校の校庭に〝○○年卒業生一同〟といった札の立てられた木がよく見られるが、我々にもなじみの深い〝記念植樹〟や〝学校林〟設置を推進したのが本多静六であった
前回はこちら↓ 【東京農林学校時代の恩師中村弥六】 第四章 緑の力で国を支える (13) 政治への思いを断った布引丸事件静六はかつて政治に志したことがある。 父親も区長をしていたわけだし、政治は彼の身近にあった。彼の行動を見ても、学者というよりむしろ政治家を彷彿とさせるところがあり、素質も十分あったと思われる。 『私の財産告白』の中で〈政治には金が必要。大きな成功を実現してから臨むこと〉と書いているが、大資産家である彼が政治資金を捻出できないはずはない。 東京農林学校時代
前回はこちら↓ 【玉山】 第四章 緑の力で国を支える (12) 台湾(日本)最高峰への挑戦後藤が静六に依頼したのは、台湾の森林資源の調査と林業育成であった。 台湾総督府民政局の役割は台湾の近代化にある。 その点、林業は将来有望な輸出産業であった。東京農林学校の同級生である齊藤音作が、すでに乃木総督の時に初代山林課長として着任していたが、静六にも協力して欲しいというのである。 乃木総督の台湾開発の進捗がはかばかしくなかったから児玉が派遣されてきたのだ。乃木総督の時代に任命さ
前回はこちら↓ 【第四代台湾総督 児玉源太郎】 第四章 緑の力で国を支える (11) 後藤新平のその後ミュンヘン留学時代、さんざ振り回された後藤新平のその後についてである。 静六が帰国して二年ほど経った頃、後藤も日本に帰ってきた。風の噂では、見事ドクトルの称号を手に入れての凱旋帰国だという。 (ろくに授業もわからなかったあの後藤が一体どうやって?) ともあれ、早速顔を見にいくことにした。 よくよく聞いてみると、後藤が取ったのはドクトル・エコノミーではなく医学博士にあたるド