【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #35

前回はこちら↓                        第四章 緑の力で国を支える (5) わが国初の大学演習林(後編)所有権の引き継ぎ事務からはじまって、山林の維持管理の一切を請け負うと決めた静六は、明治二八年(一八九五)四月四日、植林に着手した。 授業の一環として、農科大学林学科の二年生(本科・乙科)二〇数名を引き連れ、六日間にわたる〝造林実習〟に向かったのだ。 無償で譲られた土地には萱(かや)が人の背丈ほどの高さに茂る原野が含まれていた。これを周辺のような豊かな

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #34

前回はこちら↓ 【清澄寺の千年杉】 第四章 緑の力で国を支える (4) わが国初の大学演習林(前編)帝国大学農科大学は、明治三〇年(一八九七)に東京帝国大学農科大学、大正八年(一九一九)に東京帝国大学農学部と改称していく。 だが昭和一〇年(一九三五)に第一高等学校と校地交換して本郷に移るまで、ずっと現在、東京大学駒場キャンパスのある場所にあった。 それはこのあたりが東京では田舎であり、農場が確保できたからである。 日本風とヨーロッパ風農場のほか、茶畑、桑畑、果樹園、放牧地

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #33

前回はこちら↓ 第四章 緑の力で国を支える (3) わが国初の防雪林静六がドイツ留学から帰ってきた時、何人もの人が祝いの席を設けてくれたが、郷土の偉人渋沢栄一もその一人だった。 同郷とはいえ、普通なら近づくこともできない相手だが、晴れて帝国大学農科大学助教授に就任した静六は、一気に上流階級の仲間入りをしていたのである。 その席で渋沢は土産話を所望した。当時は海外からの情報は少ない。それを聞くことが彼の最大の目的だったのだ。 若い頃の渋沢は城山三郎から〝建白魔〟と評されるほど

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「若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝」著者・レオスメンバー座談会 (3)

前回(第2回座談会)はこちら↓ ================================== 本編――今回も第3回座談会にご参加いただきましてありがとうございます。参加者は前回と同じく本連載の作者である北康利先生、レオス・キャピタルワークス株式戦略部のシニア・ファンドマネージャー八尾 尚志、シニア・アナリスト小野 頌太郎の3名でお送りいたします。 早速ですが、第三章後半の29話では、静六が生涯に376冊もの著書を残したエピソードが印象的でした。北先生も静六と同じ

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #32

前回はこちら↓ 第四章 緑の力で国を支える (2) 山林王・土倉庄三郎(後編)土倉は自分のノウハウを隠さず、むしろ積極的に世に広めようとした。 明治二三年(一八九〇)の第三回内国博覧会には長さ約六〇メートルもの筏の現物を出品。林業こそ富国強兵の鍵だと訴えた。 天竜川の治水に取り組んだ金原明善(きんぱらめいぜん)を指導したことでも知られる。 金原は安間(あんま)村(現在の浜松市)の名主だったが、氾濫を繰り返す天竜川への対策として堤防の強化を考え、土倉に頼んで現地まで指導にきて

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #31

前回はこちら↓ 【山林王・土倉庄三郎】 第四章 緑の力で国を支える (1) 山林王・土倉庄三郎(前編)静六が帰国した当時、日本の林業で一人気を吐いていたのが吉野の〝山林王〟土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)だった。 静六は彼のことを深く尊敬し、謙虚にその技術に学んでいる。 本多静六という人物は強烈な上昇志向の持ち主だが、威張ることが目的ではない。威張りたければ留学帰りを金看板とし、日本の林業など歯牙にもかけない風を装えばいいわけだ。だが彼はそうしなかった。留学で学んだ知識

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #30

前回はこちら↓ 【本多銓子】 第三章 飛躍のドイツ留学 (14) 良妻賢母でかつ名医熱心なキリスト教徒であった銓子は同情心に厚く、困っている人には着物なども惜しげもなく与え、人々からの信頼も厚かった。 相変わらず翻訳や清書や資料の整理などで静六の仕事を助け、彼がはじめた四分の一天引き貯金にしても、やりくりするのはもっぱら銓子の役目だった。 静六に負けずアイデア豊富で、家庭内を平和に保つために〝ジャン憲法〟というユニークなルールを考案している。 家族間で何か意見が一致しない

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #29

前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 (13) 一日一ページの執筆静六は今で言う副業の先駆者であった。 彼は『私の財産告白』の中で、こう語って副業を推奨している。 〈サラリーマンが金を作るには単なる消費面の節約といった消極策ばかりでは充分ではない。本職に差し支え無い限り、いや本職の足しになり勉強になる事柄を選んで、本職以外のアルバイトに努めることである。(中略)給与よりも投資や副業の収入が多くなれば、経済独立をする事で勤務にもますます励める〉 本業一筋が美徳とされる

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #28

前回はこちら↓ 【銀行王 安田善次郎】 第三章 飛躍のドイツ留学 (12) 四分の一天引き貯金静六は帝国大学の助教授になった二十五歳の時、人生計画を次のように定めた。 四十までは勤倹貯蓄、一途に奮闘努力して一身一家の独立安定の基礎を築く。六十までは専心究学、大学教授の職務を通じてもっぱら学問のため国家社会のために働き抜く。七十まではお礼奉公、七十からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽隠居。 彼は「良き人生は良き人生計画にはじまる」と語り、自著『人生計画の立て方』の中で、

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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #27

前回はこちら↓ 【早稲田大学の前身東京専門学校のまわりの風景】 第三章 飛躍のドイツ留学 (11) 早稲田大学と実業之日本社・増田義一静六は帝国大学の講義だけでも大変であったにもかかわらず、大隈重信の依頼により、東京専門学校課外(科外)授業の講師を引き受けている。 明治十四年の政変で下野した大隈がその翌年に設立したこの学校は、いの一番に政治経済学部を設けたこともあって反政府勢力の養成機関と見なされ、ことあるごとに政府からの圧力を受けていた。明治三十五年(一九〇二)に早稲田

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