前回はこちら↓ 【助教授時代の本多静六】 第三章 飛躍のドイツ留学 (10) 日本最初の林学博士 静六が留学中の明治二十三年(一八九〇)六月、東京農林学校は所管が農商務省から文部省に移り、帝国大学農科大学となっていた。 そして明治二十五年(一八九二)五月末にドイツから帰国した静六は、七月二十六日付で帝国大学農科大学助教授に就任。高等官七等従七位に任じられた。 彼が幼い頃憧れた〝お役人〟に、ついになることができたのである。 当時の役人は勅任官、奏任官、判任官と分かれており、
こんにちは。ひふみラボ編集部です。 レオス(ひふみ)が特別協賛をつとめる将棋界8大タイトルの一つ「第6期叡王戦」は9月13日に最終第5局が行なわれました。 激闘の末、藤井聡太王位・棋聖が制し、史上最年少三冠となりました。 最終局の裏側は、パートナー営業部三田村(将棋は中学生のときに少しだけ経験)がレポートいたします。 将棋会館へ 当日は9時の対局スタートに合わせ、私たちの集合時間は8時20分でした。 東京に不慣れな私は早めに出発しようと、当日5時半に起床し、叡王戦決戦の
前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 (9) ドクトル・ホンダの凱旋あとは学位授与式を待つばかり。それは社会的地位の高さにふさわしく厳粛な式典で、新たにドクトルとなる者は時事問題についての演説を行うのが慣例だ。 あくまで儀式だが、日本という国を背負っているという気概の静六にとって、恥ずかしいものにはできない。 加えて、現地の新聞に次のような広告が出た。 〈今回、日本留学生本多静六君がドクトルの論文と口述試験等に合格した。そこで三月一〇日、ミュンヘン大学の大講堂において
前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 (8) 切腹も覚悟した学位試験本多家からの仕送りを期待できなくなった静六は生活費を切り詰めるだけでなく、なんとか留学を早めに切り上げられないかと思案しはじめる。かと言って博士号も諦めたくない。 そんな静六に同情してくれたウェーベル教授は、まだ二年もしないうちにドクトルの試験を受けてみよと勧めてくれた。 勇気百倍である。そして徹底的に学習の効率化を考えた。 教室では教師の一言一句も聞き逃すまいと、一番前の真ん中に陣取ってノートを取った
前回はこちら↓ 【若い日本人留学生たち。勉強の合間にピクニック】 第三章 飛躍のドイツ留学 (7) 若さを持て余す二人後藤からドイツ語を教えてくれと頼まれた静六だが、必死に勉強している彼にそんな時間があるはずがない。 ほかの日本留学生に頼めと言うと、 「ブレンターノ博士の講義の内容も聞きたいから、ほかの日本人ではダメだ」 と好き勝手なことを言う。 それでも人のいい静六は、 「毎晩九時頃僕のところへ来れば、一時間ずつ教えてあげよう」 と請け負って、まずは順序としてドイツ文法
第二弾 直筆揮毫色紙を抽選で2名様にプレゼント!将棋の八大タイトルの一つ「第六期叡王(えいおう)戦」の五番勝負が9月13日に最終局を迎えます。第4局は豊島叡王の会心譜。藤井二冠から「完敗」との声が出るほどでしたが、これで2勝2敗のタイ。防衛なるか、三冠誕生なるか、勝負の大一番は東京・将棋会館で行われます。 ひふみでは、叡王戦を応援する気持ちを込めて、叡王戦の最終局の直筆揮毫色紙を2名様にプレゼントします。また、直筆揮毫色紙が当たらなかった方の中から抽選で6名様に「叡王戦ポス