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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝

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第14回山本七平賞を受賞され、100年経営の会顧問や、日本将棋連盟アドバイザーなど、多方面でご活躍されている作家・北康利先生による新連載企画です。 日本林学の父、公園の父と呼ば… もっと読む
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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #15

前回はこちら↓ 【静六の義父・本多晋】 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (8)縁談から逃げる静六一種のテレもあるのだろう。自伝『体験八十五年』の中で静六は、彼が縁談から必死に逃げ、本多家が追いかける様子を、面白おかしく微に入り細をうがって書いている。 本多家は松野先生に続いて、中村弥六教授まで引っ張り出してきた。 中村は磐梯山噴火後の裏磐梯緑化に貢献し、五色沼に弥六沼の名を残すなどしたが、後に東京農林学校が帝国大学農科大学となったのを機に大学を辞して政界に進出。第一

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #16

前回はこちら↓ 【伊豆天城山 宵の月】 第二章 暗い井戸の底をのぞき込んだ日 (9)折原静六から本多静六へ静六が残した名言の中に〝三度辞して従わぬは礼にあらず〟というのがある。遠慮するのも二度まではいいが三度以上になれば相手を不愉快にさせ社交上も無益であるというのである。 だがさすがに縁談となると話は別らしく、極めて往生際が悪かった。 「卒業後、ドイツに四年間留学させるという条件を出してみてください」 追い詰められた静六は島邨夫人にそうお願いした。 縁談を断る方便のつもり

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #17

前回はこちら↓ 【本多静六を支えた妻銓子】 第三章 飛躍のドイツ留学 (1)強引な卒業二人が結婚した明治二二年(一八八九)当時、銓子は東京慈恵会病院の産婦人科、婦人科助手として隔日に半日ずつと、横浜のフェリスセミナリー(現在のフェリス女学院)で週二時間ずつ生理学の講義に行っていた。 それでも、いつも早く帰って来てご馳走を作り、静六の帰宅を待っていてくれた。 銓子の献身は当時の価値観で言えば、まさに〝妻の鑑(かがみ)〟であった。 銓子の蔵書が本多静六記念館に収蔵されているが

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #18

前回はこちら↓ 【本多静六、一八九〇年四月二九日にマルセイユに到着】 第三章 飛躍のドイツ留学 (2)三等船室での渡航明治二三年(一八九〇)三月二三日、この日は、前夜来の雨もあがって晴れ渡り、早くも咲き始めた芝公園の桜が青空に映えて美しかった。待ちに待った留学の日。静六の胸の高鳴りがいかばかりのものであったかは想像に難くない。 午前五時半、芝区新堀町の自宅を出て新橋駅へと向かった。 駅には松野先生以下の学校関係者、島邨家で幾何を教わった細井均先生など、多くの見送りの人が集

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #19

前回はこちら↓ 【ドイツ林学の祖ハインリッヒ・コッタ】 第三章 飛躍のドイツ留学 (3) ドイツ林学とターラント山林学校ここで少し、当時のドイツ林学について解説しておきたい。 そもそもヨーロッパにおける森林は、童話『ヘンデルとグレーテル』のそれのように、従来は魔物の住む恐ろしいものとされていた。 それを近代に入ってヨーロッパの人々は人工的に手を加え、天然資源として収益を生むものに変えていった。中でもドイツは職人学校(マイスターシューレ)を設け、高級森林官(フォルスター)制

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #20

前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 モテモテの留学生活修学旅行から帰ってきて迎えた五月十一日は、ターラントに来て最初の日曜日であった。 「教会に行ってみないか?」 そう友人に誘われ、下宿の後ろの山の頂上にある教会に行ってみたところ、思った以上に壮麗な建物なのに驚いた。 日本人が行くと皆喜んでくれる。説教を聞いていると語学の勉強にもなる。それから日曜日には極力教会に行くことにし、銓子の伯母出口せいから餞別にもらった聖書が早速役に立った。 五月十五日はキリスト昇天祭で休

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #21

前回はこちら↓ 【造林学の権威 ミュンヘン大学総長カール・ガイアー】 第三章 飛躍のドイツ留学 (5) ミュンヘン大学入学後に訪れた試練静六は、ドイツでたまたま目にした日本の新聞記事の中に銓子の名前を発見して思わず胸が熱くなった。 〈久し振りで日本の新聞を読んだ。中でも感動の深かったのは、わが最愛なる妻の名があったことで、五月一日及び三日の両紙に診療時間改正の広告があったことである〉 (明治二三年六月十五日付『洋行日誌』) 静六の留学中、銓子は新堀町の自宅に診療所を開

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #22

前回はこちら↓ 【関東大震災から東京を復興させた男 後藤新平】 第三章 飛躍のドイツ留学 (6) 後藤新平との出会い静六がミュンヘン大学で博士号(ドクトル)に挑戦していた頃のこと、ふらっと一人の日本人が彼の前に現われた。それが後藤新平だった。 台湾総督府民政長官、南満州鉄道(満鉄)初代総裁、逓信、内務、外務大臣、東京市長などを歴任し、実行力もあったが、なにしろ言うことが日本人離れしたスケールなもので〝大風呂敷〟というあだ名がついた政治家だ。 関東大震災の翌日に内務大臣兼帝

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #23

前回はこちら↓ 【若い日本人留学生たち。勉強の合間にピクニック】 第三章 飛躍のドイツ留学 (7) 若さを持て余す二人後藤からドイツ語を教えてくれと頼まれた静六だが、必死に勉強している彼にそんな時間があるはずがない。 ほかの日本留学生に頼めと言うと、 「ブレンターノ博士の講義の内容も聞きたいから、ほかの日本人ではダメだ」 と好き勝手なことを言う。 それでも人のいい静六は、 「毎晩九時頃僕のところへ来れば、一時間ずつ教えてあげよう」 と請け負って、まずは順序としてドイツ文法

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #24

前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 (8) 切腹も覚悟した学位試験本多家からの仕送りを期待できなくなった静六は生活費を切り詰めるだけでなく、なんとか留学を早めに切り上げられないかと思案しはじめる。かと言って博士号も諦めたくない。 そんな静六に同情してくれたウェーベル教授は、まだ二年もしないうちにドクトルの試験を受けてみよと勧めてくれた。 勇気百倍である。そして徹底的に学習の効率化を考えた。 教室では教師の一言一句も聞き逃すまいと、一番前の真ん中に陣取ってノートを取った

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #25

前回はこちら↓ 第三章 飛躍のドイツ留学 (9) ドクトル・ホンダの凱旋あとは学位授与式を待つばかり。それは社会的地位の高さにふさわしく厳粛な式典で、新たにドクトルとなる者は時事問題についての演説を行うのが慣例だ。 あくまで儀式だが、日本という国を背負っているという気概の静六にとって、恥ずかしいものにはできない。 加えて、現地の新聞に次のような広告が出た。 〈今回、日本留学生本多静六君がドクトルの論文と口述試験等に合格した。そこで三月一〇日、ミュンヘン大学の大講堂において

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #26

前回はこちら↓ 【助教授時代の本多静六】 第三章 飛躍のドイツ留学 (10) 日本最初の林学博士 静六が留学中の明治二十三年(一八九〇)六月、東京農林学校は所管が農商務省から文部省に移り、帝国大学農科大学となっていた。 そして明治二十五年(一八九二)五月末にドイツから帰国した静六は、七月二十六日付で帝国大学農科大学助教授に就任。高等官七等従七位に任じられた。 彼が幼い頃憧れた〝お役人〟に、ついになることができたのである。 当時の役人は勅任官、奏任官、判任官と分かれており、

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #27

前回はこちら↓ 【早稲田大学の前身東京専門学校のまわりの風景】 第三章 飛躍のドイツ留学 (11) 早稲田大学と実業之日本社・増田義一静六は帝国大学の講義だけでも大変であったにもかかわらず、大隈重信の依頼により、東京専門学校課外(科外)授業の講師を引き受けている。 明治十四年の政変で下野した大隈がその翌年に設立したこの学校は、いの一番に政治経済学部を設けたこともあって反政府勢力の養成機関と見なされ、ことあるごとに政府からの圧力を受けていた。明治三十五年(一九〇二)に早稲田

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #28

前回はこちら↓ 【銀行王 安田善次郎】 第三章 飛躍のドイツ留学 (12) 四分の一天引き貯金静六は帝国大学の助教授になった二十五歳の時、人生計画を次のように定めた。 四十までは勤倹貯蓄、一途に奮闘努力して一身一家の独立安定の基礎を築く。六十までは専心究学、大学教授の職務を通じてもっぱら学問のため国家社会のために働き抜く。七十まではお礼奉公、七十からは山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の楽隠居。 彼は「良き人生は良き人生計画にはじまる」と語り、自著『人生計画の立て方』の中で、