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「若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝」著者・レオスメンバー座談会 (3)

前回(第2回座談会)はこちら↓

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本編

――今回も第3回座談会にご参加いただきましてありがとうございます。参加者は前回と同じく本連載の作者である北康利先生、レオス・キャピタルワークス株式戦略部のシニア・ファンドマネージャー八尾 尚志シニア・アナリスト小野 頌太郎の3名でお送りいたします。

早速ですが、第三章後半の29話では、静六が生涯に376冊もの著書を残したエピソードが印象的でした。北先生も静六と同じく作家として活躍されていますが、静六の時代と現代では執筆活動にも大きく違いがあるのでしょうか。

北先生:もし私が30年前に生まれていたら作家にはなれなかったでしょうね。現在はデジタル化が進んでいて、国立国会図書館で調べ物が効率的にできるとか、ソフトウェアでコピー&ペーストができますが、昔は作家になること自体、本当に一握りの超天才に限られていました。
原稿用紙に万年筆で書いていた時代なので、最初から頭に全体の構成が分かっていないと書き進んでいけないんです。そういう時代に376冊も書いた本多静六は途轍もない人だと思います。静六の本は、第1・第2・第3と、必ずポイントを箇条書きにしていて、頭の中が整理できているのが分かります。幼い頃から例の「エキス勉強法」を続けることによって、ものごとを整理してから記憶することが習慣化されていたのだと思います。

八尾:現代は道具を活用する形で才能を育むことが増えている気がしますが、北先生はどう思いますか?

北先生:現代の最大の道具はネットやITでしょう。例えば、起業を例に挙げますが、現パナソニック創業者の松下幸之助は「電気の時代だ!」といって関西電力からソケットを最初の商品として独立しようとするのですが、ソケットの本体部分の作り方も知らなかったから独立後すぐ潰れそうになります。その窮地をたまたま救ってくれた人がいたから今に繋がるわけですが、今だったらネット検索したら出てくるくらいの技術だったと思います。
今はITという道具があって、ちょっとした工夫で起業ができてしまいます。情報もずっと集めやすい。昔は天才か強運の持ち主しか起業できなかったが、現代は違います。「起業できる今の環境をエンジョイしよう!」と若い人たちに言いたいですね。

八尾:道具のドライブがイノベーションを生んで増幅されていくのは面白いですね。経営者には「ビジョンドリブン型」「ミッションドリブン型」があります。ビジョンドリブン型は「俺はこうありたい」という経営者、ミッションドリブン型は「課題の穴埋め型、これをやらないとダメだ」という経営者。昔はミッションドリブン型が多くて、その後はビジョンドリブン型の経営者が目立ちました。例えば、テスラのイーロン・マスクさん、楽天の三木谷浩史さん、ソフトバンクの孫正義さんなどは、何かの穴埋めをするミッションドリブン型ではないですよね。とはいえ、最近では再びミッションドリブン型の経営者が増えている気がします。
どちらの型にせよ、ちょっとした気づきで何か変化をさせられる、新しくて便利な道具を使わないと損な時代だなぁと思いました。

北先生:重要なご指摘です。レオスの藤野さんは新著『おいしいニッポン』の中で、「穴(社会課題)を発見し、それを埋める方法を考えるところからビジネスは生まれる」と述べておられます。例えば、渋沢栄一は明治新政府に入って、この国が穴だらけであることに気づいた。その穴を埋めるところから、郵便が紙幣が銀行が製糸業が紡績業が生まれていった。それはまさに社会のインフラとして必要だというミッション型の事業展開だったわけですよね。本多静六も林業が明治の日本国にとって必要だというミッションを胸に事業を行っていったのだと思います。そして高度経済成長期以降、社会が成熟化してくると、ビジネスチャンスはニッチな需要という穴を見つけていくことだと考えるようになった。だが、このコロナ禍で、実は何のことはない、この国は渋沢栄一の時代並みに穴だらけであることが露呈した。今や明治のミッション型経営者が多い時代に戻っている。いや、今この国に必要なのは渋沢の作った改正掛なわけです。

――ここで改めて、第三章の内容を振り返っていきたいと思います。第三章では本多静六が東京山林学校を卒業し、波乱のドイツ留学を経て、帰国後に教授として活躍し始める展開が書かれていましたが、どんなことを意識されていましたか。

北先生:【第三章:飛躍のドイツ留学】は非常に重要な章立てをしています。日本の雅楽から出た概念で「序破急」という考え方がありますが、今回の連載はその「序破急」の構成を意識して執筆を進めました。
「序」において、本多静六が置かれた時代の環境と彼の生い立ちを理解しないと、彼の人となりや業績の凄さが分からない。その「序」が第二章までにあたります。「破」は第三章のドイツ留学だと思っています。ドイツ留学から帰ってきたことで大学の助教授となり奏任官という高官に列し、渋沢栄一のような雲の上の人から話を聞きたいとお呼びがかかるようになった。これは大変な環境変化です。人生はコツコツ積み上げていくことも大切ですが、どこかでギアを変えて飛躍しないと、人生に大きな実りをもたらすことは難しいと思うのです。静六の場合、人生のギアチェンジをしたのがドイツ留学だったと読者の皆様に感じていただければと思っています。


北先生:静六と同じ東京大学農学部を卒業された小野さんにお聞きしたいことがあります。静六がドイツ林学のロマン主義的美学を受け継いで、明治神宮の森を自然林にしようとしたことは19話でも触れましたが、伊勢や日光の森はそうではないように、日本の林業の多くはそんなことはしていません。静六がミュンヘン大学で学んだ「長期的な視点になって造林する」という学問的な考えが、現代日本の林業に生きていない気がするのですが、どう思われますか。

小野:そうですね、北先生がおっしゃるように林業の世界は様々な思想があると思っています。基本的にはドイツを中心とした海外からアイディアが持ち込まれてきたのに、日本とドイツの林業がなぜここまで違うのか。私なりの考察は黎明期の林学者の社会的地位の違いだと感じています。21話で登場した造林学の権威であるカール・ガイアーはミュンヘン大学総長でした。それくらい国家として林学が重要な位置づけだったと思います。研究に費やされるお金の量や人的資源が違ったのかなと。その国の政治家が森林にかける思いが違ったのではないでしょうか。少し時代が遡りますが、プロセイン時代のビスマルクは財産を森林に費やしたことで有名です。土地の価格が上がっていく中で、上物、木材の部分でも安定的なキャッシュを生み出せる、飢饉があっても戦争があっても、価値が残り続ける森林に対する見方が非常に合理的で、付加価値を見出していたと思います。その考え方は何十年先に生み出される価値を現在価値に割り引くDCF法(ディスカウントキャッシュフロー、収益還元法)にも繋がります。
一方で、日本の林業は植えてすぐ取る、十年後に利益がこれだけ生まれる、という視点でしか見えていません。第二次世界大戦下、資材枯渇から森林を木炭にして燃やしてしまったのもあると思いますが、自然災害の多発による損失が埋め合わせできないという考え方が根強いと感じます。また、ドイツ林学のロマン主義的美学といった観点では、森林という存在が単なるお金を生む土地だけではなく、美しさや文化的な価値を見出すのが、高度経済成長期以降だったことも影響していると思います。

北先生:日本とドイツは地形が違うので自然災害のレベルも大違いです。ドイツは傾斜が緩やかなので、川の流れはゆったりで洪水が起こりにくい一方、日本は急流が多く、圧倒的に洪水が多い。また、小野さんがおっしゃったように度重なる対外戦争で木を大量に伐採した結果、山の保水力もなくなってきている。
農商務省山林局長が歴代文官で、林学を修得した技師上がりの人が就任しなかったことからも、林学者の社会的地位が今一つ高くならなかったことを感じます。そんな中、静六は孤軍奮闘していた感じはしますね。日本で尊敬されて伝記まで残っている林学者はほとんどいませんが、ドイツにはたくさんいます。静六が留学していた恩師だって、大学の総長だったり枢密顧問官だったりしたわけですから。社会の林学への理解の差が圧倒的だったんだなと。

小野:明治の時代に林業で活躍する人が増えてきましたが、戦後はあまり目立つ人がいないですよね。戦後、森林は広めるためではなく守るための既得権益になってしまっていると感じます。私が林学を学んだ時は、今の里山をどう残すか、限界集落をどう守るかという守りの話ばかりだった印象でした。

――少し話は変わりますが、14話で登場した静六の妻・銓子が、17話では、当時女性の社会進出に理解がなく、医師としてのキャリアより家事や静六の卒業論文に協力する献身的な姿が目立ちました。本多銓子という人物についても詳しく教えていただけないでしょうか。

北先生:銓子ほどの良妻賢母はなかなかいないと思います。実は「本多銓子伝」を書いてくれと言われるくらい、社会に大きく貢献した人物なんです。妻の銓子から絶大なサポートを受けることで静六も活躍できていました。彼女が必死に家計を支えたから、「四分の一天引き貯金」も続けることができたわけです。当時の価値観でいったら妻の鏡ですが、現在の価値観からすると、銓子の溢れる才能を医療の分野に使わず、静六のサポートだけに留めてしまって良かったのだろうかという思いは残りますね。

小野:静六のサポートだけじゃなくて、銓子自身の事業なども通じて一緒に仕事ができたら、もっと本多一族は繁栄したのかもしれませんね。

北先生:実は当時から「女医」のニーズが非常にありました。女医第一号が荻野吟子というのは14話でも触れましたが、彼女が女医を目指した理由は、旦那から性病を移されてしまったものの、男性しか医師がおらず、女性に診てほしかったからなんです。ところが、「女性は優秀じゃないから医者になれない」という偏見が当時は根強かった。そうした中で、女性の医者を目指す方々は本当に涙ぐましい努力をしていきます。勉強もそうですが、政府への働きかけも必要だったわけです。そうした銓子の医者としての活動の意義に、静六はもう少し目を向けてもよかったのかもしれません。
時代の制約が銓子の活躍を抑えてしまったわけですが、美しいエピソードもあります。30話で登場した、東京女子医大の第一号卒業者・竹内茂代(たけうちしげよ)を応援するため、自分の想いを継いでほしいと開業資金を提供しています。連載ではいずれ紹介する予定ですが、銓子が腎臓を悪くして死の床についた時、竹内茂代は本多家にきて、5日間徹夜で看病をしたといいます。それほどの関係でした。

――静六だけでなく銓子も含め、本多家は様々な人々と関わりがあったのだと改めて感じました。第四章以降では更なる新しい出会いを期待してしまいますが、今後の展開を話せる範囲で教えていただきたいです。

北先生: 静六が留学から帰って社会的地位も上がったことで、人付き合いのレベルが変わっていきます。私も作家になるというギアチェンジをしたことで、藤野さんと知り合いになるなど人脈が広がりました。その人脈と経験が、藤野さんの紹介してくださるスタートアップ企業の支援に大いに貢献できていることは望外の喜びです。
静六も留学したことで、後藤新平や北里柴三郎といった当代一流の人たちと友情を育みます。22話ではその後藤新平との出会いを描いていますが、後に後藤が東京市長、内務大臣、復興院総裁と出世することで、関東大震災の復興案を書いてくれと静六に頼んできたりもします。静六は都市計画なんて専門でも何でもないのですが、以前バルセロナに関する都市計画について話したことを後藤が覚えていて、それを基に青写真書いてくれと彼に一任するのです。
留学してギアチェンジをしたことで、静六の才能が花開き、豊かな人脈を通じて社会への大きな貢献につながっていきます。第三章で描いた「序破急」の「破」の大切さを、是非今の若い人も意識していただけたらと思います。

小野:第三章を読んでいて20~30代が学べることが多くあるなと。後藤新平もドイツ語分からないのに授業受けさせろというのは破天荒というか。意外と今の時代もやってみたら許されて歓迎してくれるのもあるんじゃないかなと思いました(笑)。

北先生:僕くらいの年になると失敗するのは色々リスクがありますが、20~30代はまだまだ失敗しても挑戦し続けられます。やっぱり20~30代は攻めの時代ですよね。本多静六からも後藤新平からも人生の攻め方、人生における挑戦の仕方について学ぶことは多いです。
この連載で書こうかまだ迷っていますが、静六はこのあと政治家の道も志します。自分の可能性の限界を絶えず追求している。そのため彼の行動は林学者などという枠を軽々と越えていく。この本多静六という人物のスケールの大きさにぜひ期待していただければと思います。

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