マガジンのカバー画像

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝

63
第14回山本七平賞を受賞され、100年経営の会顧問や、日本将棋連盟アドバイザーなど、多方面でご活躍されている作家・北康利先生による新連載企画です。 日本林学の父、公園の父と呼ば… もっと読む
運営しているクリエイター

#評伝

「若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝」著者・レオスメンバー座談会 (4)

前回(第3回座談会)はこちら↓ ================================== 本編 ――今回も第4回座談会にご参加いただきましてありがとうございます。参加者は前回と同じく本連載の作者である北康利先生、レオス・キャピタルワークス株式戦略部のシニア・ファンドマネージャー八尾 尚志、シニア・アナリスト小野 頌太郎の3名でお送りいたします。 第三章までは静六の家庭環境や成長の過程にスポットが当てられていましたが、第四章では大学を卒業して社会人となり、いよ

スキ
7

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #51

前回はこちら↓ 【日本のバーデン・バーデン 由布院】 第四章 緑の力で国を支える (21) 日本のバーデン・バーデン和歌山公園の設計で対立した静六と南方熊楠だったが、二人の間には大きな共通点があった。 南方と言えば熊野のクスノキの保護活動が有名だ。一方の静六も、日比谷公園の大イチョウの移植に自分の首をかけたくらいで、木に対する愛情は人一倍深い。 静六は二〇年かけて日本全国(朝鮮、台湾を含む)の老樹古木を調査し、そのうち一五〇〇本を選出した上で、大正二年(一九一三)、『大日

スキ
40

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #50

前回はこちら↓ 【武蔵嵐山の名付け親 本多静六】 第四章 緑の力で国を支える (20) わが国公園の父日比谷公園の設計で自信をつけた彼は、その後も講演などで市民の健康増進のための公園の重要性を力説し、求められると自らその設計にあたった。 彼の携わった公園は、北は北海道から南は鹿児島県の三二都道府県に及ぶ。県別で見ると、長野県は六ヵ所、埼玉県と愛知県は五ヵ所もある。 〝大小合わせて数百に及ぶ〟と記しているのは、少し相談に乗ったものも含めたものだろうが、本多静六博士顕彰事業実

スキ
37

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #49

前回はこちら↓ 【本郷高徳】 第四章 緑の力で国を支える (19) 有徳の人・本郷高徳静六は日比谷公園の設計を機に、造林だけでなく造園の第一人者としての地位を意図せずして獲得することとなった。結果として全国から公園の設計・改良の依頼が殺到し、やがて彼は〝わが国公園の父〟と呼ばれるようになる。 後に東京高等造園学校(現在の東京農業大学地域環境科学部造園科学科)を創立して初代校長となり、造園学の大家となる静六の弟子の上原敬二東京農大名誉教授は、静六は〝造園に関してはあくまで素

スキ
57

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #48

前回はこちら↓ 【犬と散歩する女性と首賭けイチョウ】 第四章 緑の力で国を支える (18) 首賭けイチョウ日比谷公園に関する静六のエピソードの中で最も有名なのが〝首賭けイチョウ〟にまつわる逸話だろう。 話は日比谷公園開園の少し前にさかのぼる。今の日比谷交差点近くの朝日生命日比谷ビルの角あたりにイチョウの古木があった。 ちょうどこの時、日比谷通りの拡幅計画があり、移植するには大きすぎるというので切り倒されることになった。 そして静六は、まさに切り倒そうとしている現場に通りか

スキ
43

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #47

前回はこちら↓ 【日比谷公園での優雅なひととき】 第四章 緑の力で国を支える (17) 日比谷公園(後編)静六にしても公園の設計など初めてのことだったが、いつもの〝乃公出でずんば〟の精神を発揮して敢えて受けた。〝日本で最初の洋風公園〟というのも魅力的だった。 欧米で買い求めた公園設計書と東京市が作成していた最新案(東京市吏員五名案)を参考にしながら、一週間ほどかけて下図を作って提出した。明治三四年(一九〇一)三月のことである。 あくまでまだ下図段階だったが、松田市長から正

スキ
43

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #46

前回はこちら↓ 【日比谷公園】 第四章 緑の力で国を支える (16) 日比谷公園(前編)日本の庭園の歴史は古い。 時の権力者の邸宅には立派な庭園が造られ、飛鳥時代にすでに噴水が作られていたことも知られている。江戸時代には大名たちが競って優雅な回遊式庭園を作庭した。水戸の偕楽園や仙台の桜の馬場のように、庶民に開放された庭園もなくはなかったが、基本的には大名や貴族たちが楽しむ場であった。 はじめて〝公園〟という言葉が使われるようになったのは、明治六年(一八七三)一月一五日に公

スキ
54

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #45

前回はこちら↓ 【現在の緑あふれる六甲山】 第四章 緑の力で国を支える (15) 赤松亡国論アカマツしか残っていなかった六甲の惨憺たる様子は、彼に強い衝撃を与えた。 そして明治三三年(一九〇〇)、『東洋学芸雑誌』第二三〇号に「我国地力ノ衰弱ト赤松」という題名で論文を発表する。 静六の博士論文『日本森林植物帯論』の温帯林の説明の中に、すでに〝赤松林の跋扈(ばっこ)〟という表現がある。従来からアカマツは危険なサインだと思っていたが、六甲の惨状を見てそれが確信に変わったのだ。

スキ
46

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #44

前回はこちら↓ 【禿山だった六甲山】 第四章 緑の力で国を支える (14) 六甲山緑化事業静六は留学から帰って二年後にあたる明治二七年(一八九四)五月、『大日本山林会報』連載「如是我聞録」の中で米国の植樹祭について触れている。当時の日本人は、この記事で初めて海外に〝植樹祭〟なるものがあることを知ったのである。 そして今でも学校の校庭に〝○○年卒業生一同〟といった札の立てられた木がよく見られるが、我々にもなじみの深い〝記念植樹〟や〝学校林〟設置を推進したのが本多静六であった

スキ
48

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #43

前回はこちら↓ 【東京農林学校時代の恩師中村弥六】 第四章 緑の力で国を支える (13) 政治への思いを断った布引丸事件静六はかつて政治に志したことがある。 父親も区長をしていたわけだし、政治は彼の身近にあった。彼の行動を見ても、学者というよりむしろ政治家を彷彿とさせるところがあり、素質も十分あったと思われる。 『私の財産告白』の中で〈政治には金が必要。大きな成功を実現してから臨むこと〉と書いているが、大資産家である彼が政治資金を捻出できないはずはない。 東京農林学校時代

スキ
39

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #42

前回はこちら↓ 【玉山】 第四章 緑の力で国を支える (12) 台湾(日本)最高峰への挑戦後藤が静六に依頼したのは、台湾の森林資源の調査と林業育成であった。 台湾総督府民政局の役割は台湾の近代化にある。 その点、林業は将来有望な輸出産業であった。東京農林学校の同級生である齊藤音作が、すでに乃木総督の時に初代山林課長として着任していたが、静六にも協力して欲しいというのである。 乃木総督の台湾開発の進捗がはかばかしくなかったから児玉が派遣されてきたのだ。乃木総督の時代に任命さ

スキ
41

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #41

前回はこちら↓ 【第四代台湾総督 児玉源太郎】 第四章 緑の力で国を支える (11) 後藤新平のその後ミュンヘン留学時代、さんざ振り回された後藤新平のその後についてである。 静六が帰国して二年ほど経った頃、後藤も日本に帰ってきた。風の噂では、見事ドクトルの称号を手に入れての凱旋帰国だという。 (ろくに授業もわからなかったあの後藤が一体どうやって?) ともあれ、早速顔を見にいくことにした。 よくよく聞いてみると、後藤が取ったのはドクトル・エコノミーではなく医学博士にあたるド

スキ
40

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #40

前回はこちら↓ 【緑に溢れる現在の大菩薩嶺】 第四章 緑の力で国を支える (10) 東京の水道事業と奥多摩水源林(後編)水源林予定地は手に入った。 明治三六年(一九〇三)、まずは多摩川源流の泉水谷(いずみたに)(山梨県丹波山村)に派出所を設け、はげ山(無立木地)となっている周辺一帯に針葉樹を植栽していく計画を立てた。 このあたりの地質は風化した花崗岩で地味がやせ、海抜一二〇〇メートル以上の厳しい寒冷地でもあるため環境は劣悪だった。それでも静六は果敢に挑戦し、後にこの事業が

スキ
40

【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #39

前回はこちら↓ 【荒廃していた奥多摩の山々】 第四章 緑の力で国を支える (9) 東京の水道事業と奥多摩水源林(前編)東京の水道の歴史は江戸時代にさかのぼり、〝上水の水で産湯をつかい〟というのが江戸っ子の決まり文句だった。当然のことながら現在のように鋳鉄管で給水されていたはずもなく、〝上水〟とは玉川上水のような人工的な水路のことであり、江戸市内に入ったところで一部木管が使われた。 しかもそれは、明治に入ってもしばらくは江戸時代の設備のままだったのである。 やがて多摩川の水

スキ
38