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【北康利連載】若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝 #77 (最終回)

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銀杏と本多静六

最終章 若者にエールを送り続けて (10)
ついに巨木倒れる

晩年になっても静六は活動をやめなかった。

〈人間は活動するところ、そこに必ず新しい希望が生まれてくる。希望こそは人生の生命であり、それを失わぬ間は人間もムダには老いない〉

『人生計画の立て方』

実際、実業之日本社から次々に啓発本が出て、世に本多静六ブームが起きていた。
彼ほどムダに老いなかった人も珍しいが、一方で自分の健康を過信しすぎていた。伊東市内から歓光荘までの山道は曲がりくねって距離がある上に相当な勾配がある。そこを往復するのは、老人には過度な運動だったのである。
いく夫人が病気がちになっていたことも心労の種であった。
そんな中、彼は大西保にも手伝ってもらい、自伝『本多静六体験八十五年』を書き上げる。
ほっとして気が緩んだのだろう。心筋梗塞で倒れ、歓光荘のすぐ下にある国立伊東温泉病院に入院することになった。
それでも彼は立ち止まろうとはしなかった。まだ読者に伝えたいことがある。なんと彼は、病床に実業之日本社の主筆である寺澤栄一を呼び出すのである。呼ばれれば飛んでいっただろうが、問題は静六がかなり弱っており、面会謝絶とされていたことだ。
だが静六は主治医に頼み込み、なんとか入室が許された。寺澤の姿を見るなり病床に身を起こして喜び、いきなり彼に筆記の用意を命じたという。
そしていつもと変わらぬ調子で、次の著作に関する口述筆記を始めたのだ。

それは昭和二〇年(一九四五)に脱稿していたが、戦後の混乱のため発行が延期されていた『人生計画の立て方』を発刊するに際し、是非付け加えてほしい一文であった。
自分で書くだけの体力はすでになく、文章は彼の頭の中にしかなかった。彼はそれを病床で練りに練っていたのである。
「私は私の読者に、改めて一言を贈りたい。私はまだ生きるつもりにしているが、人生必ずしも意のごとく運ぶものとは限らない。そこで、運んでもよし、運ばないでもよしで、人は常に最善の用意をしておかなければならぬ。これが人生即努力のゆえんである。私は一二〇まで生きるつもり、また生きてもよいつもりで、私の人生計画を樹てた。そしてそのように、努力をつづけてきた。いまここで再び起たぬことになったとしても、これは決して無意義に終わったものとは考えない。一二〇を目標とした八五年の充実は、本多静六にとって、満足この上もない一生だ。努力即幸福に対する感謝の念は一杯である。
どうか読者諸君も誤解のないように願いたい。一二〇を目標に樹てた人生計画は、 一二〇まで生きなければ未完成というものではない。八〇でも九〇でも、いや六〇、七〇までしか生きないのでも、立派にこれを生かし、遺憾なく充実を期することができる。いつどこで打ち切りになっても悔いるものがない。人生即努力、努力即幸福、これは人寿の長短にかかわりなく絶対だ。私はこの際、とくにこのことに念を押しておきたいと思う」
一気に話し終えた静六はふーっと大きな息をつき、急に破顔すると手を差し出して寺澤に握手を求めた。
弱っているという印象とは裏腹に、それは思いがけず力強いものであったという。
寺澤にはわかっていた。この文章こそ、本多静六という巨人が、この世を辞するに際し最後に残そうとした次世代に宛てたメッセージであることが。
泣いてはいけないと思いつつも、満足気な表情を浮かべている静六を前にすると、溢れてくる涙を抑えられない。
静六に早口で、
「先生、また参ります。どうか早くお元気になられてください」
と言って、付き添っている看護師に一礼すると、逃げるように病室をあとにした。
そして聞こえそうにないところまで来ると、身をよじるようにして男泣きに泣いた。
(先生、ありがとうございました!)
寺澤の予期した通り、これが静六との今生の別れとなるのである。

この面会から一週間後の昭和二七年(一九五二)一月二九日、超人的な活動を見せていた本多静六の肉体はようやくその動きを止めた。八五年の生涯であった。
印刷中であった自伝『体験八十五年』は、予定調和のようにタイトル通りになってしまった。
この前年、サンフランシスコ講和条約が調印されている。愛する祖国が焦土となるのを目の当たりにしたが、最後に希望を抱いて世を去ることができたのはせめてもの幸せであった。わが国の独立が回復するのは、彼の死の三ヵ月後のことである。
与えられた時間をこれ以上なく有効に使い切り、その最期はまさに森の中の巨木が倒れるかの如くであった。生前の彼の功績に対し、勲一等瑞宝章(現在の瑞宝大綬章)が贈られている。
彼は自分のすべてをムダにしなかった。生前、献体を申し出ていたのだ。
遺体は東京大学医学部附属病院に送られ、孫の本多健一と三浦道義が付き添っていった。
執刀した岡治道(おかはるみち)東京大学医学部病理学第一講座教授(わが国の結核研究の第一人者)に解剖結果を尋ねると、
「心臓や大動脈などには少しも老衰の兆候がなく、五〇代以下の状態でした」
と言われたそうだ(『山林』昭和二七年三月号「本多静六先生の思ひ出」中村賢太郎著)。
アンチエイジングのサプリメントもない時代に、彼は自分の工夫と努力だけでここまで若々しい肉体を維持したのである。歩きすぎさえしなければ、あるいは本当に一二〇歳の寿命を全うできたかもしれない。
静六は伊東に移り住んだ際、ほとんどすべての公職を退いたが、帝国森林会だけは余人をもって代えがたいということで生涯会長のままであった。
二月八日、副会長であった藤原銀次郎が葬儀委員長となり、帝国森林会葬として青松寺で盛大な告別式が行われた。
冒頭の藤原の弔辞は、静六への敬意と愛情のこもった素晴らしいものであった。その後、埼玉県知事、埼玉県議会議長、東京都知事、東京大学総長、国立公園協会会長、国土緑化推進委員会委員長、日本造園学会会長、日本林業協会会長、日本林学会会長などとともに、埼玉学生誘掖会を代表して石坂泰三が弔辞を読んだ。
静六の死後、関係者から帝国森林会の財務内容を報告された藤原は一驚したという。
戦後、インフレなどで財産を大きく毀損した団体が多い中、帝国森林会だけは静六のお陰で、年間配当だけで八五万円(現在価値にして三〇〇〇万円ほど)もある有価証券や五〇〇町歩の山林など豊かな財産を保有していたのだ。
お通夜の晩、山崎種二(やまざきたねじ)(山種証券創業者)が、じっと瞑想している姿が参列者の目をひいた。静六の長男博とともに富士見中学校高等学校を設立した縁で参列したものだろうが、〝相場の神様〟と呼ばれ飛ぶ鳥を落とす勢いだった山崎だけに、投資家としてもすぐれていた静六の人生に深く思うところがあったのだろう。

静六の死後、故郷である埼玉県久喜市では「本多静六博士を顕彰する会」が発足し、顕彰事業が始まった。
生家の近くに設置された本多静六生誕地記念園には胸像が建てられ、台座には中津川の県有林から運ばれた石が使われている。ちなみに胸像の後のイチョウは日比谷公園の首賭けイチョウを接ぎ木したものだ。
平成二〇年(二〇〇八)には菖蒲南部産業団地の三崎の森公園内に「本多静六博士の森」が整備され、平成二五年(二〇一三)四月二一日には没後六〇年事業として本多静六記念館が開設された。
彼が蒔いた種は確実に根をはり、枝を伸ばしている。
生前、魂魄の不滅を信じていると公言していた静六のことだ、彼の温かいまなざしは、今もこの国の若者たちの上に注がれているに違いないのだ。
(了)

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